毎年5/3に越生町黒岩区で開催される「つつじ祭り」で有名な五大尊は毎年多くの方々で賑わいます。
関東屈指のつつじ園で、享保年間に寺僧が植えたのが始めとされる(越生町教育委員会)ということで、恐らく長徳寺の僧がつつじを植えたのがつつじ園の始まりで、今日のつつじ祭りへと繋がっていったようです。
つつじ祭りでは出店や山車の上でのお囃子の演奏が行われ、当山、正法寺の住職が毎年、五大尊堂にてお経をあげております。
階段を昇り切った山の中腹に五大尊堂があります(画像はつつじ祭りでの様子)。
五大尊の本尊、木造五大明王像は県指定有形文化財(彫刻)で不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を中央に、右(向かって左)に軍荼利明王像(ぐんだりみょうおうぞう)、大威德明王像(だいいとくみょうおうぞう)、左(向かって右)に金剛夜叉明王像(こんごうやしゃみょうおうぞう)、降三世明王像(こうざんぜみょうおうぞう)が祀られていました。
榧材の割矧造で、平安時代末期の作と推定され、五体が揃った中世以前の五大明王像としては県内唯一の例(越生町教育委員会/埼玉県立歴史と民俗の博物館)ということで平成13年3月に県指定文化財となり、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託され、平成14年に新たに新五大尊木造五大明王が建立されました。
つつじ祭りで有名な五大尊が祀られる五大尊堂は、当山末寺、巌溪山 長徳寺の境内にありました。
※写真は黒岩区の集会所で、この手前に長徳寺の本堂があったとされます。
文化・文政期(1804~1829)に編纂とされる「新編武蔵風土記稿」によれば
長徳寺
臨済宗、今市村正法寺末、岩渓山と号す、本尊正観音
此寺は五大尊の堂守なりしが、丈雪と云僧ここに住せし時より、一寺となりしとなり、
五大尊堂
五大尊、中央は坐像にて長五尺、左右の四体は立像にて長各二尺二寸、行基の作なりといふ、
とされ、元々、黒岩に五大尊堂があり、代々堂守(村人か?)によって管理されていましたが、当山正法寺の十四世 丈雪妙積和尚が長徳寺を開山し住職となったという事のようです。
丈雪妙積和尚が正法寺の和尚であったのは元和三年十一月八日から慶安四年三月十三日の頃ですから、この任期の頃に巌溪山 長徳寺を開山させ丈雪妙積和尚の弟子が長徳寺の住職となったと思われます。
五大尊堂北側にある「歴代祖師塔」の裏に正法寺三十世 宗純和尚による「五大尊縁起と祖師塔建立記」には「五大尊の縁起は古く慶長年間に逆のぼるが、この山があたかも不動明王が岩石の上に立ち村人の安泰を見守り悪魔を追い払う姿に似ていところから、時の正法寺十四世丈雪和尚が此処に五大尊を安置して寺格を備え臨済宗建長寺派岩渓山 長徳寺として、又正法寺末寺として開山」とあります。
つまり五大尊堂の成立は慶長年間頃で、長徳寺が開山する以前は五大尊堂は現在のような山の中腹ではない所にあり、巌溪山 長徳寺を開山するにあたり現在の位置へ五大尊堂を移築し納めたのかもしれません。
巌溪山 長徳寺は当山、正法寺に合寺となって以降、現存しておりません。
大正二年編纂の入間郡誌の黒岩の項には「長徳寺 正法寺末にして岩渓山と号す。今は廃寺となる。」とあり、大正二年にはすでに廃寺となっていたことが伺えます。
前出、正法寺三十世 宗純和尚による「五大尊縁起と祖師塔建立記」には「明治初年の廃仏毀釈のとき長徳寺は正法寺と合寺」とあり長徳寺は明治初年には廃寺になってしまったようです。
しかし「越生昔がたり(昭和43年、新井雄亮編)によれば明治四十年頃に現在の公会堂前にあった長徳寺が放火され火事になったことが記されています。
廃寺となった後も建物は遺されていて放火によって焼失。現在のような更地になってしまったのかも知れません。
現存する巌溪山 長徳寺の鐘には、
惟時寛政弐龍舎庚戌
首夏佛誕日見正法
雄寛衝誌
武刕入間郡越生郷黒岩村
岩渓山長徳禪寺住物
と彫られ、寛政二年春に鋳られたものと分かります。
少なくとも寛政二年には長徳寺が存在していたことを示す貴重な資料となっております。